++yue's Diary++

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2002年8月の日記

2002年8月3日(土)
japanese style
2002年8月5日(月)
かわいいもの
2002年8月6日(火)
少年たち少女たち
2002年8月11日(日)
墓参り
2002年8月18日(日)
置手紙
置手紙
置手紙

japanese style

我が家には、畳の部屋が一つしかない。
この8畳の和室で玄関(画像の奥の籐椅子のところ)すぐの部屋である。

もっぱら私の仕事部屋である。
ここで、洋裁もアイロンがけもちりめん小物つくりも、絵を描くのも全部する。おまけに時々美大生の娘が、課題を自宅で作る時のアトリエにもなる。そんなこんなで材料などが散乱し、たいてい足の踏み場も無い。

そんなある日、(年に2〜3回)
関東に住む弟家族から、「帰るよ〜!」と連絡が入る。
さて、そこからが大変!

実はこの部屋は客用寝室が正式の使用目的なのだ。
何とか部屋の半分にモノを片寄せて、押入れから客用布団を出す。その空いた押入れにすべてのものを入れ込む…ふぅ〜!押入れの戸を閉めてはい出来上がり!爽やかな笑顔で弟家族に「いらっしゃい!待ってたわよ」と言う。

そうして、和室らしい雰囲気になったのがこの画像。
壁や畳だけは必死に守って痛んでいないのが、せめても…である。
しかし、こうして時折大掃除できるので、弟家族には定期的に帰ってきて欲しいな。なんて思いながら、しばし客の去ったすっきりと片付いた部屋に、座る私である。

さて、押入れから、荷物を出すか…(だってお布団が入れられないもの)
2002年8月3日(土)  No.94

かわいいもの

昨日NHKの「ようこそ先輩!」という番組で、吉本由美さんが出てた。
小学5年生に、「かわいいもの」というテーマの授業をした。
子供たちが「かわいい」というキーワードで持ってきたいろいろなもの(アイドルの写真とか、縫いぐるみが多かった)を前に、再び彼女の問いかけがあって、子供たちは「かわいい」ということの意味を探り始める。2日目は、班のなかでデザイナー、コピーライター、スタイリスト、カメラマンなどの役割分担して、デジカメで「かわいいもの」を画像化する。納得行く画像が撮れたらそれをパソコンに取り込んでコピーをつけて、ボードに仕上げる…というものだ。

かつてのスタイリスト吉本さんのちょっとストレート過ぎるだめだしが、結構あったが、子供たちはなんのその…完成したのは、とても小学生とは思えないキュートなボードだった。

…一番私が驚いたのは、最後に男の子が言ったこの言葉。
「『かわいいもの』って、それがあるとまわりの空気が違ってくるって感じかなと思った。」
そうだよ、ほんとにそうだよ!その感性を忘れないで
2002年8月5日(月)  No.95

少年たち少女たち

広島の暑い夏、そう、今日は原爆忌である。

8時前、夏休みの子供たちをたたき起こす。
「黙祷しなかったら許さないよ!」
そしてテレビをつけっぱなしにして家事をする。
時刻だ。町じゅうにサイレンが鳴り響く。
ーー1分間の黙祷ーーー

のぶえさんは、あの時爆心地から15km西の国民学校の20歳の新米教師だった。
「広島で大きな火事があったらしい」風に乗って降ってくる灰の中で、消防団の父は、救援活動に市内へ出かけていく途中学校のそばを通り のぶえさんにそう語ったそうだ。
昼前からどんどん被災者が避難所となった国民学校へ運び込まれてきた。
あまりにひどい状況だったが、そのときは何か感情が麻痺してしまって、怖いとも思わずとにかく、傷に赤チンを塗っていったそうだ。のぶえさんの学校には、広島の中学校の生徒(男子)が連れてこられたようだ。子供をたずねてたくさんの保護者がやってきた。逢えた人もあったが逢えない人も…

実はその春、のぶえさんは初めて担任した6年生を卒業させているのだが、その中の数名を広島市内の女学校へ入学させていた。「あの子達は??」

暑い季節で、膿んだ傷口に蛆虫がわいていた。一つずつ捕っていったそうだ。治療といえば赤チンとそれぐらいのことだった。
結局そこで預かった全部の少年が、半月もしないうちに亡くなっていった。
夢を抱いて女学校に進学した少女たちも、全員亡くなったそうだ。

市内へ入って救援活動した父は、帰宅するなり、倒れこんでそのまま寝込んでしまった。のぶえさんも、ひどい吐き気と腹痛で1週間寝付いた。強力な放射能を浴びた少年たちの発する放射能の影響だった。

1年後、父が亡くなった。「原爆症だった」とのぶえさんと妹のまさえさん(当時18歳)は言う。
亡くなる時、父の体からあの少年たちと同じにおいがしたのだから。
死因はいろいろ名前があるだろうが、あのにおいがしたら、それは原爆が原因だとのぶえさんは確信している。

のぶえさんはその後、教師を辞めた。
敗戦後は、学校では教科書に墨を塗るばかりだったそうだ。進駐軍の指令で軍国的な部分を子供たちに塗りつぶさせたのだそうだ。自分の信じてきたものを思って情けなくて、もう、いい…そう思ったようだ。教員免許の新体制への移行も申請せず、彼女は教職を去った。

ーーー
核兵器はもうほんとにやめてほしい。
なぜなら、その場で爆風や熱線で焼かれるだけでなく放射能の影響は体の中で延々と続くからだ。何年たっても、何十年たっても…
チェルノブイリ原発事故のとき、防護服を着て中に入った人がいたと聞いて、私は背筋が寒くなった。絶対に近寄っちゃいけない。でも、そのとき誰かが入って操作しなければならないんだとしたら、私はやっぱり原発もやめて欲しい。

私が生まれたのは昭和30年、明るいきれいな町に生まれ変わった広島の町には、それでも体にケロイドのある人が、普通にバスに乗っていたり、「雨にぬれちゃいけん」と子供たちを呼ぶ大人の声が聞こえていた。(被爆後の広島に降った、放射能を含んだ雨=黒い雨の記憶がそう言わせたのだろう。放射能で髪の毛が抜ける影響が出るため、雨に濡れると髪が抜けて死ぬんだと聞かされたものである。)

広島を訪れる人に、伝えたい。あの時の教訓がほんとに伝わっているのかと。あの、少年や少女たちをむごい死に導いたものはなんだったのかと。生き残った人々へも、何十年と影響を与え続ける兵器の非人道さを。

のぶえさんは、幸い今年で77歳の夏を迎えた。
「のぶえさん」とは、私の母である。
2002年8月6日(火)  No.96

墓参り

雨も心配だったが、涼しいこともあり、午後墓参りに回った。
恒例の5箇所、車で回る。
他の墓は、結構車で行くと便利な場所なのだが、我が家の墓だけが昔ながらの山の中で、暗くなったら私は絶対行きたくない場所である。
連れ合いを亡くした人が、毎日墓参りするという話を聞いて私は今から心配している。

広島では、安芸門徒は盆に竹で作った灯篭をあげる。600円から1000円前後といったところか。今ではセブンイレブンとかでも売っている。
竹の先を6分して色紙を貼っただけのものだが、昔はこれにろうそくを立てて火を灯していた。風であおられ火事になることが多く今では禁止されているが、幼少時、山の斜面いっぱいの墓地で夕刻に灯篭に光がともった幻想的な光景を見たことを覚えている。
2002年8月11日(日)  No.97

置手紙
置手紙
置手紙

昨日、朝7時に居間に下りていくと
2階の自分の部屋にもいなかった息子がいない。

えっ?と勝手口を見ると鍵が開いている。
なに?なにこれ?
と、食卓に戻ると鉛筆書きの置手紙がある。

「ちょっと旅に出てくる。明日には帰る。○○郎」

自転車が無い、上着が2枚無い。リュックが無い。
おまけにPHSを持っていっていない。
大学が夏休みになってから、24時間家にいる息子がいないと私は調子が狂う。
なんだか晩御飯も作る気がうせる。

連絡の取れないまま、帰るといった今日になった。
4時ころから、ダンナと私はそわそわ…
もし戻らなかったら、どうしよう…
「捜索願を出すなら交友関係を聞かれるぞ。知ってるか?」
彼の人生のこれまでで、友といえるのは5人しか思い浮かばない。
二人で「まだ○○郎が帰らん」といい続けて盛り上がる。

暗くなりかけのころ、ひっそり当たり前のように勝手口を開けて帰ってきた。
思わず笑い出すダンナ。
私は「何を笑うか!○○郎、せめてPHS持って行ってよ!」と怒り声。

何のことは無い、7年間お世話になった塾のサマーキャンプが宮島であったのにOBで付いて行ったらしい。
バイトから遅く帰宅した娘は、「なんだ、一人旅にでも出たのかと期待したのに。一人で行ったのならほめてやろうと思ったのにな」と言う。

ここまで読んでなんと過保護な家族だろうとお思いだろう。
しかし、出不精…と言うより、ほとんど引きこもり一歩手前のような息子なんである。高校受験の帰り、広島駅前で道に迷った奴なのだ。
本当に母は「旅」に出したい!  超心配ではあるが…
2002年8月18日(日)  No.98

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